関東圏ではお馴染み「伊東に行くならハ・ト・ヤ、 電話はヨイフロ(4126)」のハトヤに宿泊してきました。本館は、1957(昭和32)年、別館は1967(昭和42)年竣工。
本館はもうすぐ築70年。古いホテルに泊まるといつも思うのですが、敷地の使い方も、建物内も、かなりゆとりを持たせた空間の使い方です。徐々に慣れてしまったので気づかないけど、こうして古いホテルに訪れると時代が随分変わったのを実感します。
関東圏ではお馴染み「伊東に行くならハ・ト・ヤ、 電話はヨイフロ(4126)」のハトヤに宿泊してきました。本館は、1957(昭和32)年、別館は1967(昭和42)年竣工。
本館はもうすぐ築70年。古いホテルに泊まるといつも思うのですが、敷地の使い方も、建物内も、かなりゆとりを持たせた空間の使い方です。徐々に慣れてしまったので気づかないけど、こうして古いホテルに訪れると時代が随分変わったのを実感します。
下田の見どころは海ばかりではなく、かつて栄えたであろう古き港町の面影が残る場所がありました。そのうちのひとつがここ「ペリーロード」。1853(嘉永6)年7月8日、江戸湾の入口である浦賀(神奈川県横須賀市)にペリー提督率いる黒船が来航、開国を要求しました。
その翌年の1854(嘉永7)年5月、日米和親条約(神奈川条約)を締結。その条約の中に、下田と箱館の2港を開くことと、下田は即時開港および領事の駐在を認めることも記載され、下田は鎖国以来日本で初めて開港された港のひとつとなりました。締結に至るまで、ペリー提督が約300人の部下を引き連れ、幾度にも渡る交渉のために実際に歩いた道が、このペリーロードなのだそう。
千里阪急ホテルに宿泊するにあたって、北大阪急行「千里中央」駅前も少しだけ散策。まずは、かわいいショッピングモール「せんちゅうパル」。160の店舗からなっていて、かつてはとても賑わっていたそう。
向こうにタワーマンションが見えるけれど、ここもいつか開発で取り壊されるのだろうか・・と思ったら、せんちゅうパルについては具体的な計画はないそうです。ただ、千里阪急ホテルも解体されるので、ここもどうなるか・・
千里阪急ホテルには宴会場もあり、ここで結婚式を挙げた方も多いと思います。「この場所で結婚式を挙げたい」という声を受けて作ったそうですが、これは素敵!
これが閉館しちゃうの?解体しちゃうの?すごく惜しいです。
多くの人の手仕事で丁寧に仕上げられた空間ならではの温かみっていいですよね。
前回に引き続き、千里阪急ホテルの記事です。今度はお部屋の中。シングルで予約をしたのですが、西館のツインにアップグレードしてくださいました(たぶん、スーペリアツイン)。シングルは東館にしかなく、西館はツインのみ。
なので、チェックインのときに西館ですって言われたときには思わずニンマリ。東館の方が古いので、そちらはそちらで楽しめたと思いますが、どちらでもいい思い出になりそうな気がしました(実際、いい思い出になりました)。
今回の大阪旅行(?)では、1970(昭和45)年の「日本万国博覧会(大阪万博)」に合わせて開業した「千里阪急ホテル」に宿泊しました。倉敷アイビースクエアや倉敷市庁舎を設計した建築家・浦辺鎮太郎氏の設計であることや、万博開幕中には外国の要人も宿泊した老舗のホテルとしても知られていますが、素敵な内装がSNSなどにあげられてご存知の方も多いのではないかと思います。
すごーく残念なことに、このホテルも老朽化や再開発のために、2026 年 3 月 30 日(月)の宿泊利用をもって営業を終了、閉館後は取り壊されてしまうそうです。
とにかくいつも混んでいてなかなか入れなったお蕎麦屋さん「虎ノ門 大坂屋砂場」に行ってきました。1972(明治5)年、砂場本家「糀谷七丁目砂場藤吉」の暖簾分けで創業。虎ノ門という場所柄、幕末の三舟「山岡鉄舟」「高橋泥舟」「勝海舟」にも贔屓にされてきたそうです。
現在のお店は、1923(大正12)年に建てられ、関東大震災や第二次世界大戦などの被災を免れました。また、近年の再開発では、愛宕下通りの道路拡幅工事の際に建屋を曳家で4m移動したものの、建物の風格は失われていません。店主さまも、現在ではもう6代目だとか。
本格的な洋式ホテルとしては日本有数の歴史を持つ帝国ホテル(現・帝国ホテル東京)の本館1階の「ランデブーラウンジ・バー」。現在の本館は3代目で1970(昭和45)年に建てられたもので、設計は、聖徳記念絵画館や学士会館などを手掛けた高橋貞太郎氏。
暗くてわかりづらいですが、床の絨毯の柄が『帝国ホテル旧本館』を設計したフランク・ロイド・ライトのデザイン柄になっていました。
ここ最近続けていく機会があったので、神田駅周辺特集みたいになっています。再開発が進み高層ビルが建ち並ぶ東京駅周辺に程近く、少しずつ再開発の手が伸びて来てはいても、昔とあまり変わらない庶民的な街。
大手町方面に歩いていくと、いかにも高度経済成長期に建てられた感じの「鎌倉河岸(かまくら かし)ビル」が見えてきます。1973(昭和48)年竣工。鉄筋コンクリート造の地上10階・地下1階建て。地味だけど、よく見るとちょっとかっこいい。
前回、甘味処の竹むらさんの記事を書きましたが、今回はそのすぐ近くにある老舗のお蕎麦屋さん「神田まつや」さん。実は、竹むらさんに行く前に訪れたら、満席。日を改めて来てもほぼ満席!さすが人気のお蕎麦屋さんです(基本的には、並ぶものと思っていい感じです)。
神田まつやさんは1884(明治 17) 年創業、大正、昭和、平成を経て令和の現在でも伝統の江戸の味を守り続けています。こちらも池波正太郎さんが通った名店です。
神田というとつい神保町の方ばかり行っていて、JR神田駅周辺に来たのは久しぶり。このあたりは、北側の神田川、南側の日本橋川に挟まれた庶民の町で、低中層ビルが密集するオフィス街。西口に降りれば大手町に近く、北口に降りれば秋葉原に近い。
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日比谷公園内にあるレトロな売店。昔の商店みたいにするなど、あえて昭和レトロな感じに改修する売店もある中で、こちらは本物です!
かつては公園内に6店舗あったそうですが、現在は日比谷公会堂前にある「石井売店(3号公会堂前売店)」 と、サービスセンターの隣にある「川原売店(4号草地前売店)」の2店舗のみ営業しています。権利者(経営者?)は民間の方です。
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1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災による建物の倒壊で、山手も瓦礫の山に。駐留していた外国人は神戸など他の都市への移住が相次いで、震災前に7650人いた外国人は翌年には2156人まで減少。そこで横浜市は復興事業として山手や根岸に市営住宅を建設しました。
この山手234番館は外国人向けの共同住宅として、現在の場所に建てられました。
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1853(嘉永6)年の黒船来航から5年、1858(安政5)年に日米修好通商条約をはじめとする安政の五カ国条約が締結されたのを機に、1859年7月1日(安政6年6月2日)に日本初の近代国際貿易港として横浜港が開港しました。
居留地の中でも、山手居留地は住宅地として発展、1899(明治32)年に居留地撤廃されたものの、割とそのまま残っていたようですが、1923(大正12)年の関東大震災で壊滅状態に。現在残っているのは関東大震災後に建てられたものです。
有楽町駅西口を出てすぐのところにあるワインレッドのビル「有楽町ビルヂング」。竣工は高度経済成長期の1966(昭和41)年5月。外見は控えめな印象だけれど、一歩中に入ると、飴色のタイルの美しさに目を奪われます。
残念なことに、建築ファンにも愛されているこのビルも、とうとう建て替えられるらしい、と聞きました。時期は2023年頃とか。
前回の続きです。ここがビル2階にあるアートスペース。オフィスビルとはいえ、ビルの1階~2階は公共施設みたいな雰囲気もあり、気兼ねなく入れます。ちょうど2022(令和4)年7月4日~30日まで「9人の写真家が見た水俣」の写真展が行われていました。
1969(昭和44)年に出版された石牟礼道子(いしむれ みちこ)さんの「苦海浄土」、昨年秋に公開された映画「MINAMATA」は有名ですが、数十年に渡って水俣に足を運んで撮られてきた写真はどれも胸に迫るものがあります。
でも、つらいものばかりではありません。
有楽町駅前の再開発も決まっているし、東京の風景もどんどん変わっていきそうなので撮りためています。今回は「新東京ビルヂング」、1963(昭和38)年第一期竣工、1965(昭和40)年完成。
この時代のビルは角に丸みを付けたものが多い気が。デザイン的な流行か、「尖ったものや鋭さを感じるものを他人様に向けてはいけない」ということに敏感だった昭和らしい感覚か。角に使われている曲面ガラスは当時の最新技術だったそうです。