三島市には、町のいたるところに水路があります。明治時代には製糸が特に盛んで、製材、精米業、紙すき、染色(紺屋)、製傘(せいさん)業など水力を利用した産業が多く見られ、こうしたモノづくりの職人さんの街でもあったとか。
三島の水は夏冷たく冬暖かいと言われ、年間を通して15度程度、染め物にはうってつけで、昭和初期には小さな町だった三島には染物屋さんだけでも20軒以上あったそうです。布を川に浸している光景はきれいだっただろうと思います。
木製の小さな水車。これで発電していたの? |
現在、三島市で水車を見ることができるのは、蓮沼川(宮さんの川)や楽寿園内。三島ゆうすい会の「遊水匠の会」が、懐かしい風景を再現しようと、飛鳥時代の水時計や大きな手作り水車を設置したとか。
この付近、夏は蛍も見られるそうですよ。
水力発電というと、ダムと流量の多い河川が必要というイメージですけれど、水を高いところから低いところに落とすエネルギーで水車を回して発電させる仕組みなので、こんなにかわいらしい水車でもできないことはないのですよね(どのくらいの発電量だったかは不明です)
とても浅いので子供が水遊びしても大丈夫なくらい。
水遊び用なのか、水に入ることを前提としたような階段があちこちに設置されていました。昔は、実際に生活用水として家に引き込んだり、ブリキ製のバケツに入れて物を冷やしていたりもしていたそうですよ。「カワバタ(川端、河端)」という言葉は知っていても、見たのは初めてかもしれない。井戸端会議ではなく川端会議をしていたのかもしれない。
そんな光景も、高度経済成長期に入ると見る見る変わっていったそう。
人口増加による水道水の使用過多、工場用水の汲み上げなどにより、地下水が枯渇し、ゴミや排水の悪臭でいっぱいになってしまったとか。そこで前出の市民団体の「三島ゆうすい会」が、地道な活動を続け、ここまで戻ったのは2000年代に入ってから。
近隣住民たちがゴミ拾いから始め、行政を動かし、子供たちに水の大切さを教育し、浄化力の強い藻(三島名物となっている梅花藻)を植え、蛍も放った・・・・もちろん湧水や地下水は自然のものなので量が少ない時もありますが、現在では、東レ三島工場が冷却水を放流し、きれいな水の流れがまた楽しめるようになったのだとか。
誤解なきように書いておくと、高度経済成長から急に工業の街になったわけではないようです。
- 1940(昭和15)年、日本各地に軍需工場が増えていったように、三島にも、水車、ポンプ、ディーゼル機関を製造する電業社が設立。
- 翌1941(昭和16)年、第2次世界大戦が始まると、中島飛行機製作所が作られる。
- 戦争末期の1944(昭和19)年、飛行機のタイヤを製造する明治ゴム工場も設立(明治ゴム工場は、終戦の年に横浜ゴム三島工場となり、現在もある)。
戦後の食糧不足解消策として、脱殼機などの農機具や農薬の製造が盛んになり、各種の機械メーカーや三共製薬の前身が創業。1950(昭和25)年に勃発した朝鮮戦争の軍需景気によって、工業生産額は2倍以上に膨れ上がったそうです。
なので、この頃から少しずつ、水が汚れる方に向かっていたのかもしれません。水がきれいなことと温度に左右される染め物をしていた人達が、水の変化に気付いたのはいつ頃だったのだろう??
この水路のわきには、知る人ぞ知るレトロ喫茶「ボナール」。お腹いっぱいなので、また今度!
コメント