おやつや気軽な手土産として人気のシュークリーム。すっかり「ビアード・パパ」に押されている感じもするし、コンビニにも当たり前のように置いてあるけど、昭和育ちにとってはやはり「ヒロタ」のシュークリームの味が落ち着きます。大きさや原料、クリームの味をはじめとするレシピもほとんど変わっておらず、あの1箱4個入りの紙パックも健在。
写真を撮るまで気づかなかったけど、チェック柄の中に「H」の文字が隠れている。 |
シュークリームが一般に普及したのは、庶民が冷蔵庫を買えるようになった昭和30年代から。そういえば「おばあちゃんは洋菓子はあまり食べたがらなかった」という記憶も手伝ってか、戦後に日本に入って来たものだと思っていたら、100年の歴史があるとはちょっと驚きでした。
まずは、シュークリームの歴史から。
「シュー」を使ったお菓子やシューの製法はフランスで発展し、現在のシュークリームのかたちになりました。16世紀の中頃、イタリアのメディチ家出身のカトリーヌがフランスの王家へ嫁ぐ際、製菓長を連れて来たのが始まり。パータ・シューを膨らませ、そこに空けた穴にクリームを入れたお菓子が生まれ、これが現代のシュークリームのはじまり。
日本にシュークリームが伝わったのは幕末の横浜。サミュエル・ピエールというフランス人が外国人居留地で洋菓子店を営んだのがきっかけだったそう。
以前販売していた「動物園シリーズ」が100周年記念として復活! |
日本でシュークリームが売り出されたのは、明治時代の初め頃。まだまだ一部の洋菓子店だけで販売される高級洋菓子でした。
洋菓子のヒロタは、1924(大正13)年、創業者である廣田定一氏が大阪市上福島の自宅を改装し、洋菓子の製造販売をしたことに始まりました。和菓子・洋菓子・ベーカリーなどさまざまな現場で修行を積み、23歳の若さで起業。大阪の中心街に自分の店を持つことを夢見て、1934(昭和9)年、堺筋にチョコレートショップを開店したたものの、思うように売れず閉店。そのとき手元に残っていたのはお菓子を焼く電気窯だけ。それでシュークリームの製造販売に乗り出したとか。
東京の人間にはピンと来ないのだけど、当時の大阪では御堂筋よりも堺筋の方が栄えていたし、今でも「メインストリートは堺筋」だという。見た目、御堂筋の方が華やかだし、歌にも出てくるので、ついつい御堂筋がメインストリートだと思い込んでいましたが、違うんですね(失礼いたしました)。
1924年ごろの大阪戎橋あたり。『大阪名所絵はがき帳』1924年刊(大阪市立中央図書館所蔵) |
大阪はもともと流通経済の中心地。東京に遷都されて少し元気をなくした時期はあったとはいえ、紡績をはじめ、機械製造や造船などの工業化が進み、新産業の中心地となって台頭し「大大阪」と呼ばれていたそう。
関東大震災の被災者の移住なども加わって人口も増加。
ヒロタが出来た頃の大阪は、東洋一の商工都市であったと同時に、文化・芸術が華ひらき、甲子園球場が開場、サントリーが日本初のウイスキー蒸留所の操業を開始。ジャズの文化も花開き、金融街に連なる堺筋には百貨店がひしめき合うように建っていたそう。活気に溢れていていた大阪の中心に店を構えるという青年の夢が、どれだけ大きかったのかが伺えます。
1935(昭和10)年にはシュークリームの実演販売店を開店。さすが苦労人ともいうべきか、多くの人にとって買いやすく身近なお菓子になるようサイズを小さくして1個あたりの値段を下げる、日本の家族形態を想定して1箱4個入りにするなどの工夫もしていったという。
第二次世界大戦中、物資不足や統制により休業を余儀なくされるが、1947(昭和22)年にはマッカーサー元帥に誕生日ケーキを送り、日本人で初めて感謝状が授与されています。戦後の混乱まだ残る1948(昭和25)年、神戸・元町に「洋菓子のヒロタ」の礎となる元町店をオープン。
1964年にはシューアイスの開発に成功、今でも人気商品となっている。 |
その後、1950年代後半から東京への進出を図り、1952(昭和32)年、日本橋・三越百貨店で「なにわのうまいもの会」という催しに、ヒロタも出店。 本当だったら、1964(昭和39)年の東京オリンピック前には進出したかったのかもしれないけれど、進出したのは1969(昭和44)年。
1973(昭和48)年にはフランス・パリにも店舗をオープン。フランスにしてみれば、思いも寄らぬシューの里帰りだったのかも。
最盛期は1990年代、日商100万個を販売したのだそうです。
ヒロタ
https://www.the-hirota.co.jp/
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【編集後記】
1924(大正13)年には、洋菓子メーカー「コロンバン」が創業し、日本で初めて本格的なフランス菓子を提供しました。また、大竹製菓と東京菓子製菓が合併して「明治製菓」に改称しています。外国のものが入ってきたり大きく変化し、大正時代の華やかさや活気があったというが、それはおそらく都会だけ。
農村では雑穀、山菜、野草、海藻、乾燥させた大根やかぶなどで、嵩増しした米飯を食べるなど非常に厳しい暮らしをしていました。都市部への人口流出、地方との格差は今でも話題になりますが、当時の格差は今の格差とは比較になるものではなく、地方の農村部からの人達がこうした西洋菓子を食べられるようになったのは、いつ頃なのだろう?「日本で」と書きながら、都市部のことだよなあと思い、ちょっと複雑な気持ちだったりします。
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