1984(昭和59)年に廃線になったJR相模線の支線、通称「西寒川支線」の跡に行ってきました。西寒川駅は寒川駅からおよそ1.5km、緑道や公園として整備され、レールも残っています。桜の季節は美しい風景が広がります。
廃線跡と桜の組み合わせもいいな・・なんて、気を取られてしまうような風景ですが、ここで見ておきたいものは「レールの継ぎ目と刻印」です。
廃線があるのは、「3」「5」のエリアです。 |
実際に使われていたレールかどうかは「継ぎ目」でわかるらしく、持ち込んで設置したような場合には、こうした継ぎ目は見られないとか。
廃線レールを目にしたら、チェックすべきは「刻印」です。
「丸にS,60 A 1926」と刻印されていますが、丸にSは、旧官営八幡製鉄所のマーク。1901(明治34)年、旧官営八幡製鉄所がレールを国産化しています。
ここには、1909(明治42)年、1918(大正7)年、1925(大正14)年、1926(大正15)年、皇紀2605(1945年・昭和20)年、皇紀2606(1946年・昭和21)年の刻印のレールが残っているそうです。ただ、相模鉄道が開業したのは1921(大正10)年なので、それ以前のレールは他の鉄道から移譲されたもの。また、1904(明治37)年に日露戦争が勃発して以来、鉄の需要が急激に増加し、鉄が不足していたため、この頃に製造されたレールは希少だそう。
途中から西暦でなく「皇紀」になっているのか?
旧日本軍の軍用機や兵器の型式は採用された年で表すことが多かったそうです。
1940(昭和15)年は、皇紀2600年という節目の年。戦争が色濃くなり、国を挙げての記念式典が日本全国で行われ、祝賀ムードでいっぱいだったそう。その年に採用された「零式艦上戦闘機(通称:ゼロ戦)」が、下2桁の「00」から「零式」になったというのは有名ですが、旧八幡製鉄所でつくられた国産レールも皇紀による刻印がされるようになりました。
皇紀は、明治憲法下での天皇制や戦争遂行と深くかかわっていたため、終戦後は公式には使われなくなりましたが、戦後の混乱期には、皇紀表示と西暦表示のものが混在していたそうです。そんなこともあり、皇紀レールには、皇紀2601(昭和16)年~2608(昭和23)年製があるそうです。
オブジェとして車輪が残されていましたが、日立のマークのようなものと、丸にS(旧官営八幡製鉄所)を確認。レールもオブジェも貴重な資料です。
横向きになっちゃったけど、日立っぽいマーク。その他書かれている記号と数字なんだろう?車輪にもひし形の刻印が。 |
かつては、ここに線路が通っていたそう。
突き当りは「八角広場」と呼ばれる小さな広場になっていて、ここが以前「西寒川駅」があった場所だそう。普通に住宅街です。
八角形の噴水が、足元には、方位を示す干支の文字が書かれていました。
「午(うま)」なので、南を指しています。近くに八方除けで有名な寒川神社があり、ちょうどこの広場は寒川神社から見ると南西(裏鬼門)に位置するため、何か関連や意味があるのかもしれません。
神奈川の風景を描いた葛飾北斎の浮世絵「鎌倉江ノ嶋大山新板往来双六」 にも描かれた寒川町一之宮。町の歴史は古く、縄文時代の遺跡も発掘されたそう。
西寒川駅の跡。 |
この奥にもわずかですが、レールが残っています。ここが突き当りだったようです。砂利や土埃等で見えにくいのですが、内側に刻印が・・・、あるはず。皇紀レールは今回見つけられませんでしたが、「工」の刻印も。これは発注者の記号で、旧官営鉄道・工部省の略号なのだそうです。
奥には、「相模海軍工廠」跡の石碑がありました。2002(平成14)年、工事中に旧軍の化学剤が入ったビール瓶が発見され、作業従事者が被災した事故が起こっています。A事案区域のひとつです。
A事案区域とは
環境省が平成15年に実施した<昭和48年の「旧軍毒ガス弾等の全国調査フォローアップ調査>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定した事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。
(引用)寒川町HP:A事案区域(旧相模海軍工廠跡地)確認マップ
詳細はいつか、別途記事にしたいと思います。
コメント