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映画でお馴染みの「戦場に架ける橋」見学 ⇒ 泰緬鉄道に乗る現地ツアーに参加してきました。バンコクから車で移動した後、ボートに乗り換えるのですが、乗り場のすぐ横に「JEATH戦争博物館」がありました。
乗船時間まで10分もあったかどうか・・・、なので外見だけのレポートです。ここが戦争博物館の入り口でもあり、ボート乗り場の入り口でもあり。
JEATHとは
「Japan」「England」「Australia」「Thailand」「Holland」の頭文字を取ったもの。ワット・チャイチュムポンチャナソンクラーム内、つまり、お寺の境内にあります。1977年に住職さまの手によって開館されたそうです。
入場料は30バーツほど。
この船乗り場のすぐ脇に小屋があり、その小屋こそが博物館。
泰緬鉄道建設時の連合軍の捕虜収容所を再現しています。
過酷な環境下での強制労働、拷問、飢餓、コレラやマラリア・・・。博物館には、兵士たちが残したスケッチや遺留品、日本軍が使っていた銃や剣などの展示、拷問の様子などがわかる資料など、日本軍の加害の歴史がわかる展示になっています。
つらそうな表情で博物館から出てくる中高年の白人のグループを見て、何とも言えない気持ちになりました。しっかり見ておくべきだったのではないか、ボートに乗り込みながら後悔の気持ちが湧いたのも事実です。
※実際に捕虜になった方々の言葉を聞くことはできなくても、
下記のサイトが参考になれば。
Prisoner of War of the Japanese 1942-1945 (英語)
泰緬鉄道で使役されたオーストラリア人の元捕虜による、手記やスケッチ、ビデオインタビュー。献身的な活動をしてきた捕虜医師たちの調査記録なども掲載。
https://www.pows-of-japan.net/index.html
Burma-Thailand Railway Memorial Assocoation (英語)
泰緬鉄道で使役されたオーストラリア人元捕虜などによる団体が運営。若い世代への記憶の継承も兼ねた「泰緬鉄道 慰霊の旅」のリポート。また元捕虜の体験記、調査記録などを掲載。
http://www.btrma.org.au/
そんな博物館の外にはどうみても「日本人のおじさんの像」が建てられていました。
ああ、やっぱり!
元日本陸軍憲兵隊通訳の永瀬隆さん(故人)の像でした。
永瀬隆さん(故人)
1918(大正7)年、岡山県生まれ。
親族に軍人が多かったこともあり、自身も通訳を志願して陸軍へ。1943年から泰緬鉄道建設に係る捕虜の通訳を務めていた。憲兵の通訳も担当したため、拷問などつらい状況にも立ち合ってきたという。連合軍の墓地捜索隊の通訳をしたときの経験が、その後の永瀬さんの人生を決める。
戦後、日本に帰国し、英語教室を開校し暮らしも安定してきた頃、タイに訪れる。以来135回に及ぶ現地訪問をし、たった1人で半生をかけた贖罪と慰霊、戦後処理をし続けた。現地の貧しい学生たちへの奨学金支給、連合軍元捕虜たちとの和解、元・ロームシャ(労務者)たちを探し出し労い続け、慰霊のための寺院を立てるなど、その活動と貢献は多岐に渡り、永瀬さんが亡くなった現在でも、広がり続けている。
「日本人は嫌いだが、ナガセは好きだ」という方がたくさんいるかもしれません。
永瀬さんは2011年に亡くなってしまいましたが、2013年に公開された映画『レイルウェイ~運命の旅路』のモデルにもなり、2016年には永瀬さんの半生を追ったドキュメンタリー映画『クワイ河に虹をかけた男』も公開されました。
●映画『レイルウェイ~運命の旅路』 (2013年:オーストラリア・イギリス)
エリック・ローマクス氏の自叙伝『泰緬鉄道 癒される時を求めて(The Railway Man)』の映画化。第二次世界大戦中、タイとビルマ間を往来する泰緬鉄道の建設に捕虜として従事させられたイギリス人将校と当時施設にいた日本人通訳・永瀬隆の姿を描いている。
●ドキュメンタリー映画『クワイ河に虹をかけた男』
https://www.ksb.co.jp/kuwaigawa_movie/
自主上映会で今でも上映され続けているそうです。
* * * * * *
<編集後記>
タイ人のガイドさんが、私達がなるべく博物館の近くに立ち止まらないよう誘導してくれました。自国の加害の歴史に向き合うには心の準備が要るので、配慮してくださったのだと思いますが、もしかしたら、そんなものを見せるなという日本人側からの声があったのかもしれません。
でも、永瀬さんならきっとあの白人のグループの人たちに自ら近寄って、温かい言葉をかけたのではないかな。私には声をかける勇気はなかったけど。
以前、インパール作戦に参加した英国兵士との和解を求めて活動した平久保正男さん達についての記事を書きました。戦後のさまざまな処理や慰霊は、国ではなく、国によって過酷な人生を強いられた人々によって行われてきたことも、次世代の私達は伝えていかなければいけないと思っています。
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