今では海外移住も人生の選択としてありの時代だし、日本人の海外での活躍もたくさん聞かれるようになりました。海外旅行先で日本人や日系人に親切にされた方も多いのでは?
日本人の海外移住は、1866(慶応2)年に海外渡航禁止令(鎖国令)が解かれてからとされています。今のような情報も得られない時代に異国に渡った彼らはどのような体験をし、どんな思いをしながら何を築き、紡いできたのか。
それだけ当時の日本はひどく貧しかったということでもあります。明治維新による土地や税制の改革で、特に地方ではますます貧困に拍車がかかり、若い男性、特に次男・三男は職を得ることが非常に困難でした。夢や期待を抱いて渡ったものの、英語もできないため意思疎通もままならず、孤独な独身者の労務者生活に加えて、粗末な住環境、過酷な労働条件での暮らしが待っていました。
雇われ労働者としての職場は、ハワイのさとうきび農園、アメリカ本土の缶詰工場、材木製材所、鉄道建設、農場など。
「とにかく、働きに働いた。働くことがすべてだった」という一世の言葉が残されているそうです。どんなにつらくても「いつか故郷に錦を飾る」ことを夢見て、団結して働き続けたそうです。しかし、実際に成功して帰国した人はあまりいなかったそうで、日本に仕送りができればいい方だったとか。
あと、残念なことに、東洋からやってきた黄色人種は差別の対象でした。
加えて、日本からの移民は「棄民」など否定的に表現されることがあり、特に入植初期の人はそのように表現されることが多いそうです。非常に嫌な言葉で「国から捨てられた」「国を捨てた」、どちらの意味にも使われ、日本にいる日本人からもそういった目で見られたといいます。
これについては、とてもひどい話があります。もう戦後になっているのに、です。
1959(昭和34)年、「日系人を駐日大使に」と、日系二世のダニエル・K・イノウエ上院議員がはじめて日本政府に提案したときのこと。当時の首相・岸信介は、日系人に対する許しがたい、侮辱な発言をしました。
日本には、由緒ある武家の末裔、旧華族や皇族の関係者が多くいる。
彼らが今、社会や経済のリーダーシップをになっている。
あなたがた日系人は、貧しいことなどを理由に、
日本を棄てた「出来損ない」ではないか。
そんな人を駐日大使として、受けいれるわけにはいかない。
Discover Nikkei
(By Takamichi "Taka" Go / 22 Dec 2014 )
幻となった「日系人駐日大使」提案―井上議員の前に立ちはだかった「日本事情」
https://discovernikkei.org/en/journal/2014/12/22/5599/
同じ日本にいる日本人として恥ずかしくつらい気持ちになる対応。しかも、一国の首相の発言ですよ???ダニエル・K・イノウエ上院議員の経歴を知ってのことだとしたら、さらに酷いです。最悪です。
そうした移民した人たちや日系人についての否定的なイメージを変え、たくましく生き抜いて次の世代へと命や文化を繋いできた、その実態をより深く伝えてくれています。
また、この資料館が、戦中戦後を除く1930(昭和5)年から1960(昭和35)年、シアトルと横浜間を就航した貨客船「氷川丸」から近いエリアに建てられているのも意味深いです。
※海外移住資料館では、南北アメリカを中心とした日本人の海外移住の歴史および移住者と日系人の現在をテーマに常設展・企画展のほか学習プログラムも用意されています。
私達が子供の頃(昭和)、海外移住をした日本人について学んだことはほとんどなく、大人になって海外に行ったとき、日本の文化や歴史、特に近現代史と日系人の歴史をもっと知っておけばよかった・・と感じたことが何度もありました。
当時はひたすら本を読むくらいしかできなかったので、有難い。
海外移住は、1853(嘉永6)年に黒船が来て開国を迫られたことに始まります。
それ以前にも密航・布教などによって海外に出た日本人はいたものの、それはここでは触れられていません。それは「移民」というのかどうかですよね。
最初の移民は、ハワイ王国のサトウキビ・プランテーションでの就労と言われていますが、アメリカ国務省の移民統計報告には「最初の日本人の移民は、1861(文久元)年1月~3月にサンフランシスコに上陸した20~25歳の男性の召使い」という記録があるそうです。何事にも先駆者がいるものです。それから5年経ってようやく幕府が海外渡航希望者に「御免の印章」を交付し始めます。
1868(明治元)年、アメリカ人のヴァン・リードが居留地である神奈川から150名あまりの日本人を維新政府の許可なしにハワイに出発させています。彼らは「元年者」と呼ばれるようになります。
また、政府の許可なしにスペイン領土のグアムにも日本人を送っているそうですが、明治政府はその事実を認知していないとか。また海外留学が徴兵逃れに使われたりなど、何かと混乱が大きい時代だったことが伺えます。
1885(明治18)年、第1回ハワイ官約移民945名が横浜港を出発。
1894(明治27)年、ハワイへの官約移民は終わったため私約移民の渡航も始まり、ハワイへの移住から、北米(アメリカ、カナダ)への移住へと広がっていきます。
1896(明治29)年には日本郵船がシアトル航路を開設、1898年にアメリカとハワイ併合により、ハワイ行の旅券を保持する日本人労働者が直接北米へ転航したりなど、その数は増加していきます。
1899(明治32)年には第1回ペルー行き移民として790名が、1908(明治41)年には第1回ブラジル行き移民として781名が神戸港を出発し、渡っていきました。
1924年にアメリカで日本人の入国が禁止され、日本に帰った人もいますが、北米から南米へと移った人も大勢いました。第二次世界大戦前には約77万人が移住をしたそうです。当時の人口を考えると、かなり多いですよね。
こちらは、オレゴン州のローズフェスティバルで使用された野菜山車のレプリカです。ローズフェスティバルなのに、野菜なの?と思ったら、アメリカで厳しい労働に励んだ日系人のシンボルなのだとか。山車の屋根には野菜でアメリカ国旗が描かれており、反対側には日本国旗があったそうです。
また、ひとことに「移民」と言っても、やはり国や地域によってかなり違いがあります。たとえば、ブラジルへ移民した一世たちは、北米に移民した人たちに比べると、極めて強いナショナリストだったという話があります。「国家のために自ら進んで出て来たんだ、自分たちは祖国にとって大切な皇民だ」という自負心が強い。
おまけに戦後随分経ってからも、日本が戦争に勝ったと信じる”勝ち組”と称した人たちが、新聞社にピストルを持って攻め込んだり。また、負けを認めて再出発すべきと考える人たちを”負け組”として、両者の間には揉め事どころか激しい抗争が続き、殺人事件もあったとか。
環境が人を作るってホントだなあ。
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資料館のレストランは、色々な国の料理がリーズナブルなお値段で頂けます。
ここはお勧めですね~。
頂いたのは、サンマリノ料理「ポッロ・アッラ・パルミジャーナ(Guilleed chicken with cheese)」。これで600円でした。
店内は、ちょっとお洒落な食堂という感じですが、眺望はよく、目の前に赤レンガ倉庫が見えます。
異国情緒のある街ですが、外国人が来たという歴史とはその逆の、日本から海外に渡った人たちの歴史に触れてみるのも素敵なことだと思います。日本にいる日本人は、輸入品をありがたがるけど、日本からどんなに素晴らしいものを輸出してきたかを知らなすぎる・・と言われたことがあるのですが、その通りだと思います。
日本を離れて「外国人」となってみてわかることもたくさんあったと思います。ずっと日本にいると気づかないこと、疑いもしなかったこと、縛られていたもの、有難かったものなどなど。これまでの歴史、彼らの経験や思いを繋ぎ合わせたら、私達が思っていたのとはまた違うものが浮かびあがるような気がします。
夏休みの宿題で迷ったときには、ここはいいんじゃないかなと思います。
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