Hawaii|U.S. Army Museumー陸軍博物館(3)

ほかには、第二次世界大戦中のこと(対日本、対欧州)、ハワイの人々の暮らし、日系兵の活躍、朝鮮戦争、ベトナム戦争についての展示が続きます。プロパガンダ的な写真もあったり、武器がひたすら飾られたり、日本については説明に困っている感じの展示もありました。

 そんな中、まさかハワイにある米陸軍の博物館で見るとは思わなった伝単「桐一葉(きりひとは)」。聞いたことはあったけど、現物を見るのは初めてです。

伝単とは、敵に降伏を仕向けたり、戦意を喪失させる目的で、空から撒いたり街に掲示したりする宣伝謀略用の印刷物(ビラ)のこと。

桐一葉は、色や形を桐の葉に似せて作られ、「落つるは軍権必滅の凶兆なり 散りて悲哀と不運ぞ積るのみ」など、当時人気だった歌舞伎の演目「桐一葉」の内容を想起させる短文が書かれています。格調も芸術性文学性も高い仕上がりですが、その効果については聞いたことがありません(たぶん、なかった)。説明に困ったのかキャプションは全くありませんでした。


この桐一葉の伝単がいつ頃、どのあたりにどのくらい撒かれたのかはわかりませんが、こんなものまで拾って集めたということからも戦勝国のゆとりを感じます。

ほかにもこんなものまで。


 



日本に侵攻していくときのことや空襲についての説明もありました。

1942(昭和17)年4月18日のドゥリットル空襲について

 

機内や周囲の様子を撮影して記録するゆとりもあったのですね。日本は末期になると、軽量化し過ぎてペラペラの飛行機に、ロクに燃料も積まずに、訓練も不十分な若い子たちが空を飛んでいたわけですからね。


 


ところでハワイはどうだったか
別の記事に詳細を譲りますが、日系人だけで編成された部隊がありました。
真珠湾攻撃からまもなく、FBIと警察 はハワイとアメリカ本土の日系コミュニティ・リーダーたちを、次々と逮捕し始めました。その4日後に、ハワイ州予備役将校訓練部候補生およびホノルル高校の志願兵によって「ハワイ州兵隊」が新編成され、アメリカ陸軍の指揮下に入りました。高校生の志願兵のほとんどは二世だったそうです。
けれども翌月、ハワイ州兵隊に所属する317人の二世たちが突然、何も説明されないまま除隊され、「4-C 敵性外国人」に分類されてしまいました。

これは本土の軍隊に所属していた日系アメリカ人も同じでした。自分たちはアメリカで生まれて育った、アメリカ国籍を持ったアメリカ人なのに、です。
また、一世たちについてはもともと移民という形で海外に送り出されてきたのに、アメリカを攻撃したらそこいる日本人たちがどうなるか、少しは考えろよ!と恨んだだろうと思います。

 

たくさんのレイを首にかけてもらった日系兵。
日本の戦地への送り方とはずいぶん異なります。
 

 

1942年2月、全員日系二世から成る「大学志願兵部隊」が、ハワイで第34戦闘工兵連隊のもとに編成されました。5月になると、ジョージ・C.マーシャル将軍の命令により、ハワイ州兵隊の日系アメリカ人によって「ハワイ臨時歩兵大隊」が編成されます。翌月、こうして集まった1432名がホノルルからサンフランシスコに移され、「第100歩兵大隊」が編成されます。

西海岸の日系人と異なり、ハワイでは強制収容所に送られた人はごく一部だったこともあり(いないと言われているけれど、わずかにいたらしい)、西海岸よりも多くの二世たちが志願したといいます。日系人の活躍と多大な犠牲については、また別途記事にしたいと思います。




旧日本軍は非常に厳しく、食べ物もろくに補給せず、毎日ビンタばかり。家族への手紙にも検閲が入るため、自分が今どこにいるのさえも記すこともできませんでした。一方、ホームカミングの写真では、ハワイ出身の日系兵は女の子と踊ってますよね。こんな国と戦争して勝てるわけがない。


 

戦争が始まると若い男性が兵隊として取られ、女性達がこれまで男性がしていたような仕事もこなすようになるのは、どこの国でも同じ。

アメリカの場合、それまで家事や育児、教会通いをしていたのに、外で働いて自分の収入を得て、家庭も切り盛りしたことは女性達に大きな自信を与えました。この時代を機に経済的自立に目覚めたという側面もあるようです。
戦争が終わって男性たちが帰って来て「仕事をやめて、以前のように君は家庭に戻ってくれ」と言われても、もう戻れなくなっていたといいます。
日本は、戦後になって”男女平等”が持ち込まれたし、それでもしばらくは専業主婦になるのが主流だったけれども、アメリカの女性達は違いました。ここにも戦勝国と敗戦国の女性の違いがあるような気がして、興味深いですよね。

 


 

欧州での日系部隊の活躍
アメリカにとって力を注いでいたのは欧州だったことが伺えますが、日系人部隊も欧州の激戦地に送られています。日本ではあまり知られていないのですが、日系兵は激戦地でものすごい活躍をしているし、ダッハウの強制収容所の解放もしています。なのに、アメリカ国内でも日系人部隊華々しい活躍はアメリカ人(白人)部隊の功績とされてしまってるところはかなりありそうです。
なので、わずかでもその功績も苦労についても書かれているとほっとした気持ちになりますが、日本に居る日本人が知らないということに複雑な気持ちになります。

 


特にお名前は出しませんが、詳しい人たちでさえ、この博物館にどうしてナチスの旗が飾られているのか、日系人部隊の写真の展示がされているのかがわからないようでした。残念なことに、ブログやSNSなど、正しい記述がされているものはほとんどありませんでした。

”ナチスの旗が床に置かれ、その一部を兵士が片足で踏みつけている展示がありました。アメリカ軍は、よほどナチスが憎かったのでしょう。”

とか、

”どうしてここにナチスの旗があるのか、違和感がありました。”


とかって、どういうことー?
日系人部隊については一言も触れられていないのが、非常に残念で。
これが真珠湾攻撃に特化した展示施設ならともかく、米国陸軍の博物館なので、別におかしいことはありません。戦争のことはあまり関心がないけどハワイに来たから寄ってみたという人の感想を書いたブログならともかく、「戦争に詳しい」と自称して発信していたり、国内で講演したり、戦跡や博物館ツアーを組んでいるのに??

さすがにそれはどうなんだろうなー(笑)。

 


朝鮮戦争やベトナム戦争のこととか
特にベトナム戦争の展示では、銃がたくさん飾られていました。それだけ銃を使った戦争だったことが伝わってきます。
銃で人と人が撃ちあうことは残酷だとは思いますが、何もないところで想像するのと、こうして銃が並べられているところで想像するのとでは、受け取る感情が全く違うものですね。だからといって、空から爆弾を落とされる方がいいということではないし、どちらにしても、たまったものではありません。

 

戦場に送られるのは、いつもこうした若い子たちばかり。


 

ベトナム戦争は、1954年頃から1975年4月30日までの、約14年半にわたる非常に長期間続いた戦争でした。アメリカの出撃基地となった日本でも、労働者、学生、市民、知識人などによる大きな反戦運動が起こりました。

最高時には56万人もの兵士が送られ、ゲリラ戦などによって58,200人が命を落としました。使用された爆弾の数は、第二次世界大戦国を上回っていたそうです。 何より戦地にいる人たちはもちろん、兵士たちにもひとりひとりの人生やご家族や友人たちがいます。亡くなった兵士、大きな怪我や病で元の生活に戻れなくなってしまった兵士たちのことは大きな社会問題になりました。特に、戦場や軍隊における過酷な体験によって精神の不調が発生した兵士たちと、帰還兵による家庭内暴力などが問題視され、1980年に「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」という診断名が確立されたほどです。また、ベトナムでは枯葉剤や残存兵器の問題で今も苦しんでいる人達がいます。
本当の意味での戦争の終わりはどこなのかわからないけれど、仮に攻撃をしなくなったことが終戦だとしても、次の戦争はもっと大きくなるものなんですね。

 

日本には、自衛隊はいても「軍」はなく、軍というと旧日本軍のイメージもあるので、わかりづらい感覚ですが、アメリカでは軍人であることを誇りに思ってる人もたくさん居るし、軍人は敬意を払われる存在です。

この博物館では、別に戦争を正当化しているわけでもなく、淡々とベトナム戦争までの出来事について、その概要を展示しているだけなのですが、これまでのことがあまりに凄すぎるとと思いました。
実際にこれだけの武器を持ち、人を訓練し、組織をなすだけでも大変なことだと思います。すごい力です(それとお金、ね)。こんな国と日本はどうして戦争したんだろう(勝つわけないじゃん)っていうのと、これだけ戦争をしているってことはどれだけの犠牲があるんだろうと考えると、足元に一気に血が落ちるような感じがしました。
普段、武器を見ることもないので、無意識に緊張もしていたようで、外に出たときはほっとしました。

まだまだ改善の余地があるような博物館。入場無料ですが、寄付箱にみんなお金を入れていました。私も1ドル札を入れました。でも、そんなことより、日本人として「これはこういうものだよ」って教えてあげた方が親切だったのかなとも思っています。

 




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