東京|昭和30年代の名残:有楽コンコース+まんぷく食堂(有楽町)

JR「有楽町」駅のそば、銀座側と日比谷側を繋ぐガード下「有楽コンコース」。竣工は1966(昭和41)年。

壁には、「丹下左膳」「子連れ狼」「椿三十郎」「座頭市」「独眼竜正宗」などの古い日本映画のポスターが貼られています。日比谷・有楽町が映画街だったこと、映画の大量生産競争の激化していた時代の雰囲気が伝わってきます。

 

 

戦後の荒廃の中、映画産業の復興は早く、戦争を知る人達は娯楽や文化を求める気持ちは本当に強く(当時の人は「飢え」と表現していた)、この界隈は特に「東京は文化で復興・発展していくんだ」という活力がみなぎっていたとか。

ただ、日本で製作される映画はすべてGHQの下部組織CIE(民間情報教育局)によって管理されていました。対米友好感情の醸成と日本国民への宣伝活動として、アメリカ映画が日本にたくさん入ってきて、有楽町や日比谷は洋画ロードショーのメッカと化していたといいます。
もちろんいい映画もあったのですが、当時の日本人が求めていたものとはかなり異なっていたうえに、アメリカ映画のフィルムは賃借料が高いこともあり、映画館としてはそれほど利益が出るものではなかったようです(メッカなのに)。

 

1951(昭和26)年にサンフランシスコ講和条約が締結され、その翌年にGHQによる映画検閲が廃止されると、これまで上映禁止となっていた時代劇が復活します。同時に、戦争体験の悲壮や感傷的な回顧を目的とした作品が次々と制作されるようになりました。また、この頃から黒澤明や溝口健二ら作品が、海外で高い評価を得ていくようになります。

 

1958(昭和33)年頃には映画館の入場者数がピークとなり、まさに黄金期。このコンコースのボロボロの色褪せたポスターからは、そんな時代の元気いっぱいな感じが伺えます。

東映はチャンバラもの、日活はアクションもの、東宝はサラリーマンもの、松竹は文芸物、大映は時代劇と現代劇、新東宝はお化けもの、などそれそれカラーがあったようです。

ポスターはどんどん剥がれていくので、もう少し早く撮っておけばとちょっと後悔。

 

 コンコースといっても、小さいけど飲食店が数軒ある程度。
その中でおなじみの「まんぷく食堂」は、昭和の雰囲気を残しており、ビンに入ったラムネや生ホッピーも飲むことができます。


 

フォークが手の形、昭和ってこういうのありました。
差し出す角度によっては「お控えなすって」になる(笑)。

 



●まんぷく食堂(食べログ)
https://tabelog.com/tokyo/A1301/A130102/13010984/dtlrvwlst/B307819686/



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<編集後記>
当時、日本が元気だったことが伝わってきます。
またこの頃の映画に出ている役者さんたちの存在感というか人間くさい。でも、すごい輝きを放っているし、演技力がものすごい。端役だからといって目立たないということがなく、斬られるときは見事に斬られるし、セリフはほとんどないのに名前を残している人たちはたくさんいます。また、撮影も過酷というよりも、命がけだったろうなと思います。
この時代の映画は、日本人としていくつかは見て欲しいなあと思います。


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