LA|全米日系人博物館(7):忠誠登録

前回「全米日系人博物館(6)」からの続きです。収容所が開設された直後から、アメリカに忠誠心があると認められた日系人に対して、収容所を出て軍事制限地区から離れた地域に定住させる施策(「再定住」という強制的な同化)も行っていました。これにより、戦争による労働者不足を補うために一時的に収容所の外にある農園や工場で働くことができた人もいたそうです。


そしてもうひとつ、二世たちが収容所から出る方法がありました。それは「アメリカ陸軍への入隊」でした。

 

「再定住」について
まだ日系人が続々と収容所に送られてくる最中、すでに戦時転住局はアメリカに忠誠心があると認めた日系人を、シカゴやクリーブランドといった軍事制限地域から遠く離れた場所に移住させていました。収容所から出られたのは、大学の入学許可を得ている学生や仕事を見つけることができた若年層でした。1943年1月にシカゴに戦時転住局の支局ができて以降、国内に42の支局が開局されましたが、収容所を出られた日系人は全体の3分の1程度でした。一世たちや子供を抱えた母親たちは、一般社会で戦前以上に厳しい差別を受けることを怖れ、収容所にとどまったそうです。


日系人部隊のこと
日本では戦争を知っている世代以外はあまり知らない(学校でも習わない)のですが、日系人だけの部隊が結成され、主にヨーロッパ戦線の激戦地で戦い、アメリカ軍史上、最も多い勲章を受けた伝説の部隊として語り継がれています。また、二世兵士達は忠実な市民として、それまでの日系アメリカ人のイメージを大きく変えました。その功績は素晴らしいものですが、非常に大きな犠牲を伴うものでした。それまでのことを、さらに数回に分けて書いていきたいと思います。

 


 

日系人社会には、二世たちを中心とした「JACL(ジャパニーズアメリカン・シチズンズ・リーグ: 日系アメリカ市民協会)」という組織がありました。アメリカ政府に協力的な組織であったため、一部の日系人からは「アメリカの犬」等と非難され、収容所に移されてからも、たびたび対立していました。1942年にこのJACLが各収容所の代表者たちを集めて徴兵制の復活を主張、代表者たちが合意したため、他の日系人たちが激怒し、JACLの代表者の襲撃事件も発生したほどでした。

一方、ハワイでは日系人による「歩兵大隊」結成が告知されると、ものすごい数の志願者が集まったそうです。同じ日系人でも地域によって思いは大きく異なっていました。この対照的ともいえる2つのエリアで集められた日系人がひとつにまとめられることになるのですが、両者の溝は大きかったそうです。

 

ぼやけていますが、この質問票も展示されています。
当時これに答えた人は、見るのも嫌でしょうね。


 

1943年1月、戦時転住局が17歳以上の日系人たちに対して「出所許可申請書」というタイトルの質問票を配布しました。もともと兵役志願者の忠誠心を審査するため、陸軍省が用意したものでしたが、戦時転住局によってそのタイトルと「収容者に西海岸から離れた地域に住居と仕事を提供するためのもの」に変えられました。実際、兵役選考のためだけではなく、戦時転住局の経費削減や、戦時下による労働力不足を補うため社会に戻す必要があったそうなのですが・・・・
※収容所の管理・運営の予算は、1942年から1946年の約5年間で1億9000万ドルにも及んだと言われています。

 

ただ、その中の27番目と28番目の質問が日系人の間で大問題となり、後に「忠誠登録」と呼ばれるようになります。

(質問27)
あなたは、命令されればどこであろうと、すすんで米陸軍兵として戦闘任務につきますか?
(質問28)
あなたはアメリカ合衆国に無条件で忠誠を誓い、外国または国内勢力のいかなる攻撃からもアメリカ合衆国を忠実に守り、日本の天皇や他の外国政府、勢力、組織への忠誠や服従を拒否しますか?

 

想像で答えられるようなものではないけれど、もし、自分がこの時代に収容所に居て、この質問を突き付けられたらどういう感情が湧いただろう?そして自分はどう答えただろう?

 

もともとの目的である「兵役志願者の忠誠心の審査」としてなら核となる質問ではあるのですが、志願もしていないし考えたこともないのに、いきなりこの質問にYESかNOで答えろって、どれだけ乱暴なんですかね。この質問自体がもう心理的な暴力、という気がします。

特に有事の最中、危険人物は外に出せないからとはいえ、もうちょっと質問を変えられなかったのかなあ。危険かどうか他の方法で判断できなかったのかなあ。既に出所してる人もいたのだから。

 


一世たちにとっては「自分たちの帰化を頑として認めず、財産やそれまでの暮らしが奪っておきながら、日本国籍も捨て、無国籍状態になれというのか!」、二世たちにとっては「市民としての権利を祖国から剥奪し、ひどい環境に放り込んで将来の希望まで断った挙句に、今度はアメリカのために命を棄てろと要求するのか!」と言いたくなる残酷な内容です。二世でも、アメリカと日本の双方を知る帰米二世の場合は違う思いを持っていたと思います。

質問票を配る前に気付けよ・・と思うのですが、こうした事態をうけて、アメリカ政府は質問票を変更しようともしたそうです。一方、JACLは人々にYESと答えるように説得に回り、収容所内はさらに大混乱に陥ります。

 

二世の平均年齢は20歳くらいだったそう。
こんな若い青年たちが突き付けられたものや背負わされたものは、
あまりにも大きすぎました。


結果、登録対象者約78000人のうち「YES」と答えたのはおよそ87%、28問目に「NO」と答えた6700人と条件付きにした2000人は、アメリカに忠誠を誓わない者と判断されました。最も日本寄りの人達が収容されていたトゥーリーレイク収容所では、「NO」と答えた人が対象者の3分の1にあたる3200人にものぼりました。彼らはのちに「NONO  BOYS」と呼ばれるようになります。

アメリカ国籍離脱や日本への送還を要求した人もいれば、市民としての権利を回復するならという条件付きでYESと答えた人もいたといいます。親がNOと答え、子供がYESと答えた、兄がYESと答えたが弟はNOと答えた。収容所内でもYES組とNO組との間で諍いが起きるようになりました。
「不忠誠」とみなされた人たちはトゥリーレイクに移動させられ、忠誠者から隔離されることになりました。1944年の冬から1945年にかけ、トゥリーレイク収容所では5500人以上の二世たちが自らアメリカ市民権を放棄したそうです(戦後に再取得できたそうです)。

自分たちの家族がバラバラになることもあれば、自分たちの家族は大丈夫でも、すぐ隣の家庭が崩壊していくさまを目の当たりにしたり、友達からつらい話を聞くこともあったことと思います。それだけでも耐えがたいものがあります。

※全米日系人博物館では、おおまかな歴史についてはわかりますが、YESと答えた人とNOと答えた人がその後どのような人生を歩み、どのような違いがあったのか。個人差もあってなかなか比較できるものではありませんが、体験記を読むのもひとつの方法だと思います。またこの博物館の隣にある「Go For Broke National Education Center」の方が、このあたりのところはもう少し詳しくわかると思います。

 

時間はかかりますが、記事は後日アップします。

 

*  *  *  *  *

<編集後記>
この2つの質問は、アメリカ側には想像も及ばないほど、移民たちにとって大きな意味をもち、多大な影響を与えるものでした。収容所内の日系社会や家族に分断や別離や争いを生んだだけでなく、「あのときどう答えたか」が戦後しばらくの間、大きく影響し、相容れない何かは生涯続いたいう話も聞いたことがあります。そもそもが非常に政治的な質問でもあると同時に、とても個人的な質問で、難しい話ですよね。
どのような答えを出したのか、その状況下で各々が精一杯出したものであり、どちらがいいとか悪いとかはありません。それぞれの背景や立場、思いがあり、その答えを出すに至るまでの経緯など、相応の理由が語りきれないほどあるだろうと思います。そのときの回答に悔いがない人もいるかもしれないけれど、揺らいだ人だっているかもしれない。
もちろん、これらのことは収容経験もしていないし平時だから言えるのだと言われれば、本当にその通りなのですが、平時だからこそ書けることであり、次世代の私達が大事にしたいことでもあります。

 


コメント