前回「全米日系人博物館(5)」からの続きです。1942年から1946年まで、アメリカ政府は、約7万人のアメリカ国民(二世)を含む、約12万人の「日本人の血を引くすべての民間人」を拘留するため、内陸地の砂漠や沼地や荒野に10箇所の強制収容所を建てました。集合センターから日系人が送られた環境はとても厳しいものでした。
有刺鉄線に囲まれ、監視塔には銃を持った兵士が立ち、その視線や銃口は収容されている日系人に向けられていました。すきま風が入り込むような粗末なバラックに、他の家族と詰め込まれるような相部屋、仕切りのない共同シャワー室や共同トイレ、食堂での粗末な食事・・・衛生状態も悪く、感染症が流行ることもあり、気候も厳しいため体調を崩し、命を落としてしまう人もいました。
日本語では強制収容所と書いていますが、アメリカでは言葉を巡って色々な問題があるようです。当時日系人が収容された施設は総称として「Internment Camp(戦地定住センター)」と呼ばれていました。また、それぞれの収容所に「〇〇 War Relocation Center(戦争移住センター)」という名称が付けられていました。
Internment Campは、抑留施設、捕虜収容施設と訳され、スパイ行為やテロ行為防止のための隔離が主目的です。一方、Concentration Camp(コンセントレーション・キャンプ:強制収容所)では、過酷な強制労働があったり非合法な死刑があったりする施設のことをさします。
財産も何もかも奪って、政策に抗議する人達には処罰を課し、赤子から年寄りまで容赦なく粗末な過酷な環境に送り込み、肉体的にも精神的にも追い込んでおきながら、反逆的な行為防止の隔離が主目的というのは通るの???とも思いますよね。
戦時下や終戦直後の混乱期の収容は、平時の収容とは比較にならず、どのような違いがあるかまではわからなくても、平時のそれとは違うとわかる言葉を使う方がいいのかなと、戦後生まれの私は思います。日本語も然りです。
収容所は以下の10カ所。
- アイダホ州三ニドカ:9,397名
- アーカンソー州ジェローム:8,497名
- アーカンソー州ローワー:8,475名
- アリゾナ州ギラ(通称:ヒラリバー強制収容所) :13,348名
- アリゾナ州ポストン:17,814名
- コロラド州グラナダ(通称:アマチ収容所) :7,318名
- カリフォルニア州マンザナー:10,045名
- カリフォルニア州トゥーリーレイク :18,789名
- ユタ州トパーズ :8,130名
- ワイオミング州ハートマウンテン:10,767名
少しでも収容前の生活に近づけられるよう、日系人たちは各々の知識や技術、できることを協力して行い、少しずつ環境を改善していきました。
学校(高校までで大学はない)や図書館、運動場、レクリエーション施設、農場、調理場、診療所、新聞社(英語の新聞のみ)、宗教施設などを作り、小さくとも家族単位で住めるような家も建てて行きました。また、日本人の口に合うような食事を自分たちで作ることを申し出るなど、本当に協力し合ったといいます。
組合も組織され、収容所内の仕事に対して月19ドルの給与も支払われるようになり、通販で物を買うこともできたそうです。
季節ごとのイベントや、野球の試合、ダンスパーティなども開催され、少しずつ人間らしい暮らしになってきたとはいえ、これらはアメリカ側が率先して改善してくれたわけではなく、日系人たちが交渉して努力して実現してきたものでした。
見ていると楽しそうな写真も多いのですが、有刺鉄線も監視塔もそのままです。
罪もなく、それまでの生活を奪われ、過酷な環境に送り込まれた事実は変わりません。身体的、心理的、経済的な打撃は長期間に渡り、その後の人生に影を落とす非常に大きなものでした。真面目に助け合いながら暮らして来たのに、国からは不忠誠だとされただけでもつらいのに、家族内や世代間、意見の相違などで争いが起こるようになりました。
食事は家族単位ではなく、食堂で食べるシステムだったことから、年齢や考え方などが近い人同士で集まることが多く、そのことがコミュニティにさまざまな分裂を生むことに繋がったとも言われています。
長年積み上げてきたものを失った高齢者たち、学業やキャリアや希望を断たれた若者たち、過酷な環境での出産や子育てをする女性たち、有刺鉄線の内側で幼年期を送った子供達、それぞれの苦しみがありました。耐え切れず、命を落とす人、自ら命を絶った人もいました。
収容所の写真をみていると、報道写真っぽいものやアメリカ側(軍とか局とか)が撮ったであろうものも多々ありますが、日常生活を写したもののほとんどが同じ収容所ではないか?ということに気付きます。それに表情が違いますよね。もし、撮影した人が軍とか局の人だったら、こんなに警戒心がない様子や、笑顔を向けられるだろうか?いったい誰が撮ったんだろう?
撮影したのは、Toyo Miyatake(宮武東洋、本名:宮武 東洋男)という、マンザナー強制収容所に送られた日系一世の写真家でした。
1895年に香川県で生まれ、13歳の時に父の呼び寄せで渡米、28歳のときにリトル東京で東洋写真館を開き、戦前のロサンゼルスオリンピックの報道写真を撮るなど活躍をしていました。
1942年4月に家族と共にマンザナーに送られて以降、終戦まで収容所を撮影し、ひたすら記録し続けました。どうやってカメラを持ち込んだのかというと、レンズの部分だけをこっそり持ち込み、同じ収容所にいた大工さんにカメラのボディとなる木箱を作成してもらい、手製のカメラに仕上げたそうです。
かといって隠し撮りばかりもできないし、全てが隠し撮りとは思えない写真もたくさんあります。どうしてあれだけ撮ることができたのか?も、写真を見ていて不思議に感じるところです。
たまたま収容所の所長が写真に理解がある人で、宮武氏の写真への愛情や実績、収容前の活躍や他の有名写真家との交流を知っていたなど、幾つもの幸運が重なったと言われています。宮武氏は戦後は、スタジオを再開し、日系人社会の新聞「羅府新報」で活躍したそうです。
もうひとり、マンザナー収容所内を撮影した人がいます。
アンセル・アダムスというアメリカ人写真家です。真珠湾攻撃の後、日系人の強制収容ににショックを受け、マンザナー強制収容所を訪問し撮影を行っています。その後、フォトエッセーを制作、ニューヨーク近代美術館で『カリフォルニア州インヨー郡マンザナール強制収容所の忠誠心ある日系アメリカ人(Photographs of the loyal Japanese-Americans at Manzanar Relocation Center, Inyo County, California』として発表しました。
強制収容所というと、何かとマンザナーが取り上げられるのは、こうした記録が残っていて伝えやすいこともあるかもしれません。けれど他にも9カ所あり、それぞれの苦難がありました。中でも、同じカリフォルニア州に作られた「トゥーリーレイク (ツールレイクとも表記される)」は、マンザナーとは違った意味で、日本人にとって考えさせられる逸話のある収容所です。
続きます。
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【追記:2022年9月】
強制収容が始まった年から数えて今年で80年。強制収容された日系アメリカ人、約12万5000人の名簿が初めてまとめられ、公開されました。名簿は「Ireicho(慰霊帳)」と名付けられ、この博物館に収められました。全員分が名簿としてまとめられたものは今回初めて。
名簿の作成を進めてきたのは、南カリフォルニア大宗教学部長のダンカン・隆賢・ウィリアムズ教授が率いる12人のチーム。収容所に送られた日系人のリストは米政府も残しているものの、氏名のスペルが間違っていたり、文字が不鮮明で判別できなかったりするものも多いため3年かかったとか。
名簿は、収容者氏名がアルファベット順にリスト化され、収容者の氏名、性別、出生日、配偶者の有無、米国市民権の有無、外国人登録番号、収容所への入所方法(収容所移送前の在籍施設で誕生したか収容所で誕生したか、等)、入所日、強制移転前の住所、収容所住所、収容所出所理由(米国居住権回復、抑留、日本への送還、隔離、他の収容所への移転、死亡)、出所日、移転先とのこと。
名前しか残せるものがないといえばそうかもしれませんが、名前が残るってとても深い意味のあることだと思います。
全米日系人博物館(プレスリリース):
https://www.janm.org/ja/press/release/japanese-american-national-museum-invites-public-sign-sacred-book-names
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