東京|島に行こう!:八丈島(3)歴史と観光地

島全体を見渡せる「登龍峠(のぼりょうとうげ)」からの眺望。すっきりした晴れではないけど、うっすらと左向こう側に八丈小島が見えています。見下ろすと海はすごく青い!!

 

八丈島の文化・歴史には「島流し」や「流人」の話が出てきます。彼らの影響抜きに語れませんが、ちょっとつらい話もあるので、読みたくない方はここで画面を閉じてください。

 

それにしても、こんなに青くてきれいな海に流されてきた流人は、どんな事情でどのような暮らしをしていたのでしょうか?
現代では「島流し」というとサラリーマンの左遷の意味で使われますが、実際の島流しは、何等かの罪を犯した人たちが、本当に海に流されていました。

流罪はすべて遠島に限定され、江戸からは伊豆七島(伊豆大島、八丈島、三宅島、新島、神津島、御蔵島、利島)、京都以西は、薩摩の島々や隠岐、壱岐、天草、佐渡などと定められていたようです。しかも、小さな船の帆に受ける風が動力だったため、目的地に到着できなかったり、黒潮に乗りアメリカ西海岸に遺骨が流れ着いた事例もあったとか。

 

 

 

江戸幕府は、1606(慶長11)年~1871(明治4)年の間に1900余名の流人を八丈島に送り込みました。

初期の八丈島への流刑は、「遠流(おんる)」として、政治犯や思想犯などで人数も少なく比較的身分の高い者が多かったそうです。武家や僧侶出身の流人たちは、ほとんど教育を受けたことのない島民に教育をするため寺子屋の師匠を買って出たそうです。村人や子供達に学問やその他の知識を教えたり、技術指導をしました。こうして島の教育が始まりました。
また、生活様式や一部の産業をはじめ、日本のさまざまな地方の流れを汲んだと思われる民謡や踊りの多くは、流人によって伝来したもの。

絶海の孤島に住む島民にとって、流人たちはただでさえ食料が少ない島にとっては大きな負担でもあると同時に、新しい話や知らないことを聞かせてくれる珍客でもあったようです。島の役所も寛大で、基本的には強制的な労役を強いるなどの罪人扱いはなく、小屋を作って住まわせ、一緒に働けば生活ができたようです。大罪を犯した流人の場合は「流人屋敷」とよばれる施設に入れられ、厳しい監視下で生活したとか。

この丸い石積みは、流人たちが海岸から拾って積み上げたものだとか。
街道沿いにあるものは道路整備・拡張の際に積み直していると思います。
 

 

八丈島の女性達は渡海者に対して強い興味を示し、流人の不遇な生活に同情を寄せ身の回りの世話をするうちに夫婦になった人もいたくらいだったので、何もなければそれほど悪い生活でもなかったのかな?と思います。
ただ、いつ来るともわからない「御赦免」が来るとほとんどの流人が妻や子供を残して故郷へ帰っていたそう。流人には入れ墨がされているので帰ったところでどれだけ社会復帰ができたかはわかりません。


八丈島には7カ所の天然温泉がある。「みはらしの湯」は絶景!

 

 

次第に流人の人数の増加すると質も低下し、賭博や喧嘩、女犯などの罪状の流人が多くなってきたとか。

 

映画「るにん」(2006年・日)
流人は「御放免」があるまでは島を出ることはできず、絶海の孤島で何十年も暮らさなくてはなりませんでした。当然、「島抜け(脱出)」を試みる人が出てきますが、成功した例はほとんどなく、溺死をするか捕まるか。

映画「るにん」は、八丈島の流人のお話ですが、こうした人達を処刑するシーンから始まります。“ぶっころがし”といって、丸い籠に罪人を入れ崖から突き落とすというものです。黒砂砂丘のあたりで行われていたそうです。


この画像は黒部砂丘のあたりではないけど、とにかく八丈島は断崖が多い


また、この映画ではこの時代に生きる女性達の苦労も描かれています。
松坂慶子さん演じる豊菊は、15歳のとき江戸・吉原に放火した罪で八丈島へと島流しにされた花魁です。いつか再び江戸へ帰ることを夢見ながら、彼女は島の男たちに体を売り、ご赦免状欲しさに役人に罪人達を密告しながら、生き延びていました。
自分がしてきたことを振り返り「この穢れた身体で島の土になりたくない」と泣き叫ぶ姿や、この時代の堕胎や避妊方法が語られるシーンは壮絶です。そうする以外に生きるすべがなかった当時の女性たちが置かれていたひどい境遇には、ただただ言葉を失います(木の棒を突っ込んで大出血の上で中絶、避妊方法は膣に海藻を詰めたというが効果はない)。


 

佐原の喜三郎というのは、ただ一組島抜けに成功した実在の人物。史実では、実際に島抜けに成功したのは喜三郎と後からやってきた遊女の花鳥で、豊菊はこの後に島抜けに失敗しているそうです。

るにん(R-15)




 

時代を先に進め、太平洋戦争時や戦後はどうだったか。
硫黄島にも近いことから被害はどうだったのか気になるところです。
日本陸軍は、アメリカ軍の侵攻に備えて地下壕を掘り、坑道でつないで島を要塞化していたといいます。町中に防空壕跡のような洞窟が残り、珍しくもない感じですが、三原山の山中には陸軍が「最終司令部」を造り、また人間魚雷「回天」の基地まで造られていた跡が残ってるのだとか。
そんなことからも、最後の砦となる準備というか「八丈島が破られれば本土決戦になる」と考えていたことが伺えますが、戦線は北上せず沖縄へ移り、八丈島にとっては幸い、戦場とならずに終戦となりました。

 

そして戦後。
「戦争孤児と戦後児童保護の歴史――台場、八丈島に「島流し」にされた子どもたち」という本によると、戦争孤児たち、中でも”特質浮浪児”と呼ばれる悪質不良性の者の収容する養護施設「武蔵寮」があったとか。
最も多い時期には91名の子供達が収容されていましたが、創設から5年後の1952(昭和27)年に収容されていた少年らによる放火によって全焼し、寮は閉鎖されました。逃げるといってもこの狭い島では知れており、行き場を失った浮浪児を島の人達が預かったそうですが、どこに預けられたかでその後の人生は大きく変わったそうです。


戦争孤児と戦後児童保護の歴史――台場、八丈島に「島流し」にされた子どもたち



 

 

こののどかさからは想像がつかないこんなに壮絶な歴史があったなんて。今度また別の島に行ってみたいと思います。


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<編集後記>
風景の画像と文章の対比もすごいものになりました。気軽にのんびりするつもりができずに、これが「記録系ブログ」運営のつらいところでもあり、楽しいところでもあります。

 

 


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