東京から1~2泊で息抜きするなら、熱海や伊豆、房総半島ってちょうどいい距離感ですよね。さほど移動時間が変わらないなら、飛行機に乗ったら「島」に行けるよな・・と思って八丈島に行ってきました。悪天候で欠航になって帰れない可能性もあるのが難点だけど、融通が利くならさほどハードルは高くないと思います。
東京の南方海上286キロメートル、面積69.11平方キロメートルのひょうたん型の島。ANAの定期便が1日3往復(羽田空港~八丈島空港)あり、片道約55分です。海沿いを走る八丈一周道路は約45キロメートル、車で1時間半ほどで一周できます。
海汽船の「橘丸」が1日1往復(東京・竹芝桟橋~八丈島・底土港または八重根港)ありますが、片道約10時間20分。もし八丈島から他の島へに行くなら、「東京愛らんどシャトル」と「あおがしま丸」が運行しています。
東京都だけど、年間平均気温は約18度。
冬は温暖、夏でもそれほど暑くならないそうです。亜熱帯の植物が生い茂り、黒潮暖流の影響を受け高温多湿で年間を通して雨が多く、風が強い。年間降水量はいわゆる東京の倍以上とか。
しかも、天候も変わりやすく台風もよく通るエリアなので、島では、天気予報を見るときは「前線」を見るのだそうですよ。
条件付きフライトと欠航流人
特に、春になると風の強い日が多いそうで、「条件付きフライト」になりました。
『八丈島の上空を40分間ほど旋回できる燃料は積んであるけれど、それでも着陸が難しいと判断した場合は、羽田に戻る』というアナウンスが羽田空港と機内の双方でありました。羽田に戻った際には、料金払い戻しはしてくれるそうです。
私は楽天トラベルのANA楽パックでの予約だったのですが、それでも大丈夫とのこと。
羽田に引き返すかどうかは機長さんのご判断に左右されるらしく、旅客機のみのご経験パイロットさんは慎重に判断して引き返すような強風でも、自衛隊からキャリアチェンジしたパイロットさんは強風の中を突っ込んで行き、難なく着陸させてしまうのだとか。
島の方たちにとって、飛行機は生活物資を輸送してくれる命綱でもあるため、空港やホテルの方だけでなく、色んな方が、天候、飛行機や船の到着とそれにまつわる情報をよくご存知なのに驚きました。
今回、帰りの飛行機が欠航になってしまったので、翌日の朝一番の便に振り替えてもらい、宿を確保することにしました。せっかくだから別のホテルに泊まるのもいいなと思ったのですが、お世話になったホテルに連絡したら、すごく慣れたかんじですぐにお部屋を用意してくださいました。
シーズンオフだからよかったものの、ハイシーズンだったらどうするんだろう??と思ったら、飛行機や船が欠航になって帰れなくなった人達を「欠航流人(けっこうるにん)」と呼ぶのだそうで(笑)。欠航が2日間以上続くと、島の方々が欠航流人を招いて宴会をしてくださるとか。温かいなあ。
その宴が行われるかどうかの情報は、八丈島観光協会のツイッターでチェックしてみてください、とのことでした。
八丈島空港は1944~1945年に日本海軍が設営した海軍新飛行場を拡張したもの。 滑走路工事には、朝鮮半島からの徴用者250~500人が動員されたと推定されている。 |
たった1時間弱でがらりと風景が変わり、熱海や房総に行くより非日常を味わえそうです。富士火山帯に属する火山島なのに、山の形とか山肌も全然違うんですよね。伊豆とか新島のようなビーチはないけれど、シュノーケリングが楽しめて、サンゴもすごい量で、運がいいとウミガメにも会えるんだとか。これでも東京都?
今回は海には入りませんでしたが、見ているだけでもきれいでした。
八丈小島
すぐそばにある八丈小島には2つの村がありましたが、1969(昭和44)年以降は無人島。八丈島自体も面積が狭く、やせた土地であることにくわえ、風雨や塩害、干ばつ、台風などの被害で凶作や飢饉にあってきた島。その八丈島と比較しても耐えがたい生活水準の格差があったための移住と言われています。
始祖、そして言語消滅の危機
黒潮に乗った漂流者によって開拓され、八丈島の歴史は始まったとも言われていますが、縄文時代から人が住んでいたことが、湯浜遺跡や倉輪遺跡で確認されているとのこと。
以降も漂着船が多く、人や食料や物資、文化をもたらしましたが、伝染性の病気が運ばれてくることもありました。それでも島民は漂着船を待ち望んでいたようです。吉村昭の小説「破船」のように”座礁させて襲う”といった残酷なことはなかったものの、本土では想像しえない離島の生活の苦しさが伺えます。
現在、八丈島の人口は約7000人。1980年代には1万人以上住んでいたので、やはりこちらも人口が減少傾向。
「島言葉」「八丈方言」と呼ばれている八丈島の言葉は日本に残る貴重な方言の1つだそうです。これがユネスコの調査によると、消滅の危機なのだそう。
奈良時代に関東周辺の人々が詠んだ歌「万葉集東歌」の文法の特徴(形容詞の語尾が「悲しけ」「長け」など「け」で終わるなど)が見られ、八丈島や青ヶ島で今でも使用されているそうです。
八丈島の言語をちょいと知ってみよう
http://rodmagic.nobody.jp/hougen.htm
また、風が強い土地柄、風に関する言葉が発達しているとか。普段意識しないけど、私達が使っている言葉には、風土や感性など色々なものが織り込まれ、脈々と受け継がれているのですね。
ちなみに、空港やホテルでみかける「おじゃりやれ」は、「いらっしゃい」という意味だそうです。
さて、八丈島の産業ですが、農業(花き観葉植物栽培)と沿岸漁業を基盤とし、商工では焼酎造り、くさや加工、黄八丈織などのほか、観光関連サービス業が中心となっています。
焼酎
伊豆諸島のうち最初に焼酎造りが伝えられたのは、八丈島なのだそうです。
水田があるのも八丈島だけ。ならば日本酒が作れそうな気はしますが、江戸時代に酒造りが禁止されていたそうです。八丈島では水田があるといっても収穫量は少なく、度重なる飢餓対策の為でした。そこへ薩摩からの流人・丹宗庄右衛門(たんそう しょうえもん)が、さつま芋での焼酎の製造方法を伝えたことが原点となりました。
日本三大紬に数えられる「黄八丈」
黄色、樺色、黒色の3色を基調とした絹織物。平安時代から織られていたとされ、年貢や交易品として、島民の生活を支える重要な産業でした。室町時代には貢納品として「白紬」を納め、現在の染色技法になったのは寛政年間頃、江戸時代中期になると縞や格子の模様も織られ始めました。
八丈島では、男は畑仕事、女は機織りという性別による分業がかなりはっきりしていて、女性は「機織りが出来なければ一人前の女性として認められない」「嫁の資格としては器量よりも機織りの腕」と言われてきたそうですが、女性の地位も高かったそうです。(そういえば、台湾原住民の部落もそうだったなあ。男は狩り、女は機織り)
本居宣長が書き残した書物に「黄八丈を織り始めたところから八丈島と名が付いた」と記述があり、島の名前はここからと言われています。
ちなみに値段はピンキリですが、ホテルでも黄八丈の羽織が用意されていました。さらっとしてて着心地がよかったです。
明日葉
八丈島だけでなく、房総半島、三浦半島、伊豆諸島で見られますが、意外と食べることは少ないですよね。八丈島では、お浸しや和え物、てんぷらなどにして出てきます。
本当に身体によいらしく、薬草としても使われ、島に飢饉があったり流人たちが思いのほか長生きしたのには、明日葉があったからではないかという説があるほどです。
ホテルの中に明日葉のドリンクサービスがありました。味はちょっと青臭い感じはしますけど、青汁よりもずっと飲みやすかったです。粉末タイプで水や牛乳に溶けやすいタイプも売られています。
お土産にこういうのはどうでしょう?
島寿司とか、島ならではのお料理もおいしそうです。
島寿司は、メダイやトビウオを独特の醤油ダレに漬け込んたもので、小笠原諸島や大東島の大東寿司も、もともとは八丈島から伝わったとされています。あとは、くさや。八丈島のくさやはそれほどにおいがきつくないと言われていますが、やっぱりちょっと勇気要りますね。
八丈島空港内でも寿司折が売られてましたが、確か、都内にいくつか八丈島料理のお店がありましたよね。そちらで食べてみて、気に行ったら、島に来て食べるのもよしだと思います。
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<編集後記>
現在、世界で6000語以上の言語が使われているそうです。世界で20億を超える人が3つ言語(英語、スペイン語、中国語)のいずれかを使っている一方で、多くの言語がものすごい勢いで消滅していると言われています。国連教育科学文化機関(ユネスコ)は2009年、そのうちのおよそ2500語が消滅の危機に瀕していると発表しました。
日本においてはアイヌ語(特に危機的)、八丈語、奄美語、国頭語、沖縄語、宮古語、八重山語、与那国語の8つの言語が消滅危機のリストに加えられています。
これまでも世界では、都市部への人の移動、移民の増加、災害、内戦などによって言語は消滅してきたほか、いつかお会いした台湾原住民のように統治などによって消されていく言語もあります。オーストラリアでは250もの土着言語があったそうですが、移民の増加によって、その90%が消滅寸前だとか。
また、もともと文字を持たなかったり、言語保存に重要な古文書が焼かれたり盗まれたりなどで、母語の継承に大変な苦労をしている人たちもいますが、言語は自分たちのルーツです。東京生まれ東京育ちだと特に今は危機感は感じないけれど、もしこれが少なくなったら(人口減少で少なくはなるけれど)、他人事じゃなくなるだろうなあ。
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