東京|激動の歴史、都会の森のレストラン「日比谷松本楼」

1903(明治36)年創業、日比谷公園内の「松本楼」は、近代史の舞台にもなったところ。政治集会、焼打事件、関東大震災、亡命中の孫文が来店、空襲、公園が軍の陣地になると海軍省の将校宿舎に。終戦後はGHQが接収、沖縄返還協定反対デモの暴動事件・・・。


松本楼もその影響を受けて歴史に翻弄され、今にいたります。

 

 


日比谷公園は、江戸時代には萩藩毛利家など、8つもの大名の上屋敷があったそうです。明治維新によって屋敷は取り払われ、1871(明治4)年に「陸軍操練所」が設置されたものの、廃止されました。
1899(明治22)年に、東京の「市区改正」(都市計画)に基づく公園として、「日比谷公園」の設置が決定。1903(明治36)年に、初めてできた東京市営の公園でもあり、また、日本初の洋風(ドイツ風)近代式公園として開園、松本楼もこのとき同時に開店しました。


洋風レストランがまだ珍しい時代、1906(明治39)年には当時のグルメ・ランキングの「東京料理店番付」で"西の関脇"に選ばれたそう(この相撲の番付みたいなランキングは江戸時代から存在し、料理に限らず色々なものを番付していた)。

文人や美術家の憩いの場だったのに、日露戦争の頃から次第に日比谷公園が激動の近代史の舞台に。今では想像ができませんが、まず、国士の集合場所になり、政治活動の会場として知られ、大正初期の第一次護憲運動ではバルコニーから憲政擁護の演説が行われたそうです。
 


そして、現在までに2回も焼失したことがあるとか。
1回目は関東大震災。2回目は沖縄返還協定反対デモで中核派の投げた火炎瓶の直撃を受け、犠牲者も出てしまった。これほど激動の波に揉まれたレストランもないと思うが、全国にいるファンの要望に応えて再建され、現在の建物は3代目となる。
(2回も焼失したら、心を立て直すのだって大変だったはず)。


このときの感謝の意を示す記念行事として、1973(昭和48)年以来、毎年9月25日限定で、先着1500名に「10円カレー」セールを実施。毎年この日、レストラン前には長蛇の列ができています。
無料ではなく敢えて10円を受け取るのは、「無料では、(来店された方を)お客様としてもてなすことにならない」との考えからで、その日の売上や頂いた寄付金は、すべてユニセフなどに送っているそうです。
 

現在、1階は洋食レストラン「グリル&ガーデンテラス」、
3階はコース料理が主の仏蘭西料理レストラン「ボア・ド・ブローニュ」。
どちらも都内屈指の名店で、全国に多くのファンがいるという。

日比谷松本楼
http://matsumotoro.co.jp/history/history.html



<おまけ:首かけイチョウ>
人が居て撮影はできませんでしたが、松本楼のテラス席から見えるところに「首かけイチョウ」と呼ばれている大きなイチョウの木があります。樹齢は推定で400年以上。1901年(明治34年)、日比谷通りの拡幅工事で伐採されそうになっていたこのイチョウの木を、日比谷公園の設計者・本多静六が「私の首をかけよう」と強く主張して救ったことから、そう呼ばれています。
太平洋戦争中は、高射砲の邪魔になるとして切り詰められたり、1971年(昭和46年)には過激派組織が投げた火炎ビンの被害を受けて松本楼が全焼した際に、この木も類焼して黒焦げになったりと散々な目に遭っているものの、その都度回復してきました。
そんなことから、このイチョウが生えている場所は、縁起がよいとか、勝負運がよくなるとか、「パワースポット」としても知られています。


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<編集後記>
個人的には、大好きなお店です。東京でオープン・カフェなんて、排気ガスだらけで行く気になれないという人もいると思うけれど、ここならどうかなあと思います。


時代の証言者 日比谷公園 「松本楼」の110年 小坂哲瑯 (読売ebooks)

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