書籍|人権無視した制度改正に物申す!:わたしのリハビリ闘争(著者:多田富雄)

治療やリハビリ、介護・看護などが成り立つためには平和であることはもちろん、国の制度などの条件もとても大切。2006(平成18)年に政府が行った診療報酬改定により、公的医療保険で受けられるリハビリ医療に上限日数が儲けられてしまいました。

それって、切り捨てでは?と、腹を立てながら父娘で読んだ本。現在、介護をしていなくても、将来を考え始めたり、リハビリをしている人の気持ちも知りたい方にも、ご一読頂きたい一冊。

自分が子供の頃と比べても医療技術は発達し、病院のクオリティも改善されていると、本当に感じています。けれど、現場の事情、医療関係者の多大な努力とは裏腹に、制度はどんどん厳しいものになってきています。
これから、厳しくなることはあっても、改善されることはあまり期待できそうにありません。

患者や患者の家族としてもそうだけど、医療・福祉関係の人たちにとっても大変だと思います。待遇の問題も大きいけれど、技術や経験、設備や気持ちがあっても、制度が整ってなければ、それらを活かすことができません。
彼らに「助けられなかった」「もっとできることがあるのに」などの歯痒さ、悔いや無力感を感じさせ続けるのも、あまりにむご過ぎませんか。


著者の多田富雄さんについて
「闘争」という言葉に激しい時代を生き抜いて来られた世代の方を思い浮かべました。
著者の多田富雄さんは1934(昭和9)年生まれ。やっぱり。2005(平成17)年12月に放送された「脳梗塞からの “再生”免疫学者・多田富雄の闘い」をご覧になってご存知の方もいらしゃるかも。

著者の多田富雄さんは、世界的な免疫学者や文筆家として活躍中の2001(平成13)年、脳梗塞で倒れてしまいました。リハビリをし、左半身麻痺、嚥下・発声障害を抱えながらも執筆活動を続けてこられていたのに、2006(平成18)年4月、厚労省の保険診療報酬改定により、リハビリが打ち切られることになりました。
この決定は「現場の実態を無視した医療費削減政策の暴走」「弱者切り捨ての失政」であるとして、新聞への投書から始め、1年余に渡って執筆や発言をし、「診療報酬改定の撤回を求める運動」に尽力されています。



著書について
本を開くと、「はじめに」が37ページに及んでいることからも、強い思いを感じます。制度批判に焦点は充てられているものの、命や人権のこと、患者さんにとって闘病やリハビリがどういうものか、など、健康な人には絶対に理解できない、想像もしえない様々なこともちゃんと盛り込まれ、胸に響きます。

一部引用させていただくと、

脳血管疾患では、確かに180日を過ぎると、麻痺は固定化し、急性期、回復期のように、目だった回復は望めない場合が多い。
今回の改正も「回復の効果が明らかでないから」を理由に挙げている。
でもこの時期のリハビリは、無限に機能回復を目指したものではない。
(中略)この時期は維持期と呼ばれ、拘縮を防ぎ、筋力を維持することに重点が置かれる。この時期のリハビリは、寝たきりになるのを防ぎ、廃人とならずに社会復帰を促す、大切な医療行為である。


素人の私が思うことだけど、リハビリってそれゆえに苦しいし、その苦しいこと、本人にしてみればやりたくないことを敢えてしなければならないほど、大事なもの。それに単なる機能回復のためだけのものではないと、傍目で見ても感じます。

大きな病気や怪我をした場合、原状回復のような、病前に戻る、まるでなかったかのようにするという方向を目指すと、ただ苦しいだけだったり、そもそも無理があったり、再発の危険があったり、頑張っても意味ないものに思えたりすることがあるかもしれません、
もちろん、取り戻したいという気持ちは、自然なことだし、本人を支えてくれる力になるとは思います。けれど、実際のところ、病気とうまく付き合っていくとか、これまでと違うやり方で、生活や人間関係を少しでも心地よいものにしたり、些細なことに喜びを感じたり、社会参加をして自立していく、人生まるごと考えることも、リハビリはサポートしてくれているように思います。

「〇〇はできなくなったし、病気をしたことがいい経験だなんて言わないけれど、それでも、結構幸せなことあるもんだなあ」とか「もうダメだと思ったけど、案外ダメじゃないじゃん、俺!」みたいな時間を少しでも多く過ごしてもらえたらなあ、と。

リハビリを打ち切ってしまうというのは、かえって医療費がかかったり、人を管だらけにしてしまうのではないか?尊厳はどうなるのか?と、国は危惧しなかったのか??打ち切った後のこと(受け皿)はどうするつもりなのか???などなど疑問がいっぱい。

私と同じように、180日を過ぎた慢性期、維持期の患者でも、
リハビリに精を出している患者は少なくない。それ以上機能が低下しないよう、
不自由な体に鞭打って、苦しい訓練に汗を流している。
なんとしてもドロップアウトすまいと、歯を食いしばって、
つらい訓練に励んでいるのだ。


我が父の場合、脳出血でした。倒れたのが2006年。
同じ病室の患者さんのご家族も「180日で病院を出なきゃいけないらしいのよねぇ」と思わず不安が口をついて出ていました。
リハビリ開始したての頃、家族としても見ていられない程つらいものでしたが、本人はどれほどだったろう。頭もぼんやりしているし、身体も細く小さくなっていて体力もあるわじゃない、ついこの間まで自由に動かせた体が全く動かない、わかってたはずのことがわからなくなったことに気づく、そんな現実が突然襲ってきたら、とても受け止められるものではないと思います。

医師や看護師、リハビリの先生方に支えられ、動かないものを動かそうとし続ける、自力で身体を必死で支えようとする、面白味を見出せない単調な作業をひたすら繰り返す・・。そうしたつらいことが、毎日の生活であり、仕事みたいであり、それが生きている証みたいでした。回復を信じ、生きようとしていく力を、父も、そして多くの患者さんが持っていました。思い出すだけでつらいことも多かったけど、180日ってあっという間。

幸い、本人の努力や先生方の尽力や、運の良さもあり、父も少々の麻痺は残ったものの驚くほど回復し、自分でトイレに行き、少々制限はあっても食べたいものをある程度食べ、付き添いと杖は必要だけど、自分の足で住み慣れた町を歩き、娯楽を楽しめるまでになりました。
最初は医師も「ほぼ寝たきりになる可能性が高い」と言っていたし、本人も「もうだめだ」と何度も思ったそうだけど・・。人の可能性って本当にわからないものだとありがたく感じました。
その人にある多くの可能性を、国が制度として断ってしまうということが、どういうことなのか。

障害を持ってしまった者の人権を無視した今回の改訂によって、
何人の患者が社会から脱落し、尊厳を失い、命を落とすことになるか。
そして一番弱い障害者に「死ね」と言わんばかりの制度を作る国が、
どうして福祉国家といえるのであろうか。


制度の怖さの1つは、こういうところじゃないかと思うんですよね。↓↓↓

切り捨ての効果は、すぐには表れない。
真綿で首を絞めるように、じわじわと生活機能を奪っていく。


今、介護がなくても、まだ若くても、「将来どうなるのか」不安なのに、状況はますます悪くなっている。もう、いろんな制度はチェックしていかないといけない。これから何かと理由を付けて(ろくな説明もなく)、医療・福祉、教育など国民にとって必要なものは、徐々に、あるいは一気に削られていくと思います。

そして国民の負担は多くなる。
自己負担、自己責任、自己管理って。



* * * * * * *
<編集後記>
いつか、父が亡くなるのは仕方ない。ただ、こんな風に国の制度によってゆっくり殺されていくのなんか、絶対に御免だ。
たまたま弱者となってしまった人たちやその周囲の人たちを支え、国民生活の安定と豊かな社会共通資本の維持・増進のために、増税をするとか制度を変えたいというのなら、協力する余地もあるし、みんな真面目に取り組むと思います。
人に冷たくて、国民を大事にしない政治、こういう国が発展していけるわけがない。
こうやって弱者を切り捨てた先に、素晴らしい社会や明るく豊かな生活が待っているとでも思っているのか、不思議でならないですよね。




【追記:2014年10月】
多田富雄さんは、2010(平成22)年4月にお亡くなりになりました。生前の活動に感謝すると共に、心よりご冥福をお祈りいたします。
また、我が父も2014(平成26)年2月に他界しました。多田さんが発信してくれたお陰で、私達は頑張れたと思ってます。関係者の皆様にも、心よりお礼を申し上げます。



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